相馬事件、精神保健福祉士の勉強をしている方は耳にしたことがあると思います。
手元の精神保健福祉士のテキストでは
(前略)、相馬事件(1894(明治27)年)により、座敷牢に対する規制が全くないことが問題となった。
日本精神保健福祉士養成校協会編集 「精神保健福祉に関する制度とサービス」新・精神保健福祉士養成講座6 中央法規出版
一体何があったんだ、相馬事件・・・
調べてみると意外に興味深い内容でした。
国家試験に出題される精神保健分野の法律改正の変遷は、歴史の流れを理解していると比較的頭に入りやすいため、勉強中の方もご参考になればと思います。
参考URL:公益社団法人 日本精神神経学会https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=19
明治時代初期まで【加持祈祷がメイン】
明治時代の初期まで、精神病の治療はおもに加持祈祷に頼られていました。
明治7年(1874年)に明治政府により「医制発布(いせいはっぷ)」がなされ、「癲狂院(てんきょういん)」の設立に関する規定が決められました。
癲狂院とはいわゆる公立の精神病院です。(現在の精神科病院とは異なる点があるためあえて精神病院という表現を使っています。)
しかし、財政難などを理由に癲狂院の設置が広く進むことはありませんでした。
当時の精神病患者の多くは、医療を受ける機会がないままに「私宅監置(したくかんち)」といって自宅の「座敷牢(ざしきろう)」で隔離された生活を送っていました。
相馬事件とは
明治12年(1879年)に旧相馬藩主相馬誠胤(そうまともたね)が発病し、精神病を患ったとして座敷牢に監禁されました。
これについて誠胤の家来の錦織剛清(にしごりたけきよ)が、のっとりの陰謀だとして反発し行動を起こします。
錦織の主張は、「主君は病気に仕立てられ上げて監禁され、財産が奪われようとしている!」というものでした。
明治20年(1887年)錦織が東京府癲狂院に侵入し、入院中であった誠胤本人を連れ出すという事件が起こりました。
試みは失敗し途中で取り押さえされましたが、錦織は事のてん末を新聞に投書しました。
明治25年(1892年)に誠胤が病死すると、錦織はこれを毒殺だとしてその後関係者を告発します。
遺体を掘り起こすまでされ死因が調べられましたが、結局毒殺の裏付けは得られず、錦織は虚偽申告の罪で投獄されることとなりました。
相馬事件の影響―精神病者監護法制定へ
最初にご紹介したテキストの文章に戻ります。
(前略)、相馬事件(1894(明治27)年)により、座敷牢に対する規制が全くないことが問題となった。
日本精神保健福祉士養成校協会編集 「精神保健福祉に関する制度とサービス」新・精神保健福祉士養成講座6 中央法規出版
相馬事件をきっかけに精神病患者に対する社会の関心が高まることとなりました。
それと同時に私宅監置への関心が高まり、明治33年(1900年)「精神病者監護法」へとつながりました。
精神病者監護法について少しだけ。
こんな事件があった後だから、当時の精神病患者の人権や医療提供に関する法律ができたのかしら??というと残念ながらそうではありません。
おもな内容は精神病患者を行政に届け出て、許可を受けて私宅監置するというものでした。
端的にいえば家族に責任を課して社会から排除するというものです。
この法律は戦後GHQ主導で1950年に精神衛生法が制定され、私宅監置が廃止されるまで続きました。
届け出ることによって座敷牢の存在を行政が認めていたわけですから、いかに日本の精神病患者が長きにわたり非人道的で理不尽な環境におかれていたかがわかると思います。
おわりに
当時の状況を少しでもわかりやすくするため、相馬事件の前後についても少しだけ補足しました。
錦織という人物は忠誠心も相まって、誠胤のおかれた環境に対しても理不尽さを覚えたのでしょうか。
注目を集める行動や投書など世の中に訴える力が大きい人物だったと思われます。
事件の詳細を知って思い出したのは、精神科病院を舞台にした韓国映画でした。
財産相続をめぐり、入院に関する法律が悪用されるという韓国で実際に起こった事件に着想を得た作品です。
現代を舞台に、正常な人を精神疾患の病気に仕立て上げて強制入院させるという恐ろしいものでした。
いまの日本では精神障害者の人権を守るための仕組みができてはいますが、それでもなお長期入院や社会的入院は改善の道のりが長く、人道上の問題が残っています。
過去の歴史を学ぶことは私たちの問題意識を変えるきっかけになるのではないかと思います。